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2006年5月 7日 (日)

12冊目 『イトイ式コトバ論序説』

「MOTHER」のことで頭がいっぱいのまま図書館に行ったら、こんな本を見つけてしまいました。今回紹介するのは、

『イトイ式コトバ論序説』 糸井重里 1992.9 マドラ出版

イトイ式コトバ論序説』 糸井重里 1992.9 マドラ出版

という本です。この本は、「夜中の学校」シリーズ(全13巻)の1番目の本なのですが、さて、「夜中の学校」シリーズって一体何でしょう?そのことについて、巻末で天野祐吉さんが書かれていたので、以下引用します。

「夜中の学校」シリーズについて

スクール(学校)のはじまりはスコーレ(遊び)だというのに、いまのスクールにはスコーレがない。で、「学び」は「遊び」だと実感できるような学校がほしいネという雑談から「夜中の学校」が生まれた。

教室はブラウン管がいい。地代がこう高いと、学校を建てるのがタイヘンだということもあるが、それ以上に、テレビはじっくり「語る」のに最適のメディアである。ヘンな細工をほどこさずに、「語る人」をエンエン映し出せたら、とぼくらは思った。

先生は、表現や学問の分野で、ちゃんと遊んでいる人がいい。幸いにも「広告批評」はふだんからそんな人たちとおつきあいがあるので、これには困らなかった。こういう先生たちにこういう講義をしてもらったら、ぼくらも決して学校ぎらいにはならなかったろう、というような先生方である。

「夜中の学校」は1991年7月から1992年9月まで、テレビ東京で毎週金曜日の深夜に放送され、この「夜中の学校」シリーズは、その講義録として出版されたそうです。

糸井さんにも、「コトバ」にも関心が高かったので、喜び勇んで読み始めました。

目次を見ると、

第一講 コトバだらけの世界

第二講 ダジャレとナンセンス

第三講 コトバと人間

第四講 感動と共振

第五講 コトバじゃ言えないコトバがほしい

となっていて、テレビ放映された5回分の講義(1991年8月3日・10日・17日・24日・31日放映)が読めるのですが、テレビでの講義が収められているということで、文章は話し言葉で、とても読みやすかったです。

さすが「コトバの職人」である糸井さんの講義だけあって、読みやすいのに内容はとても深くて、いろいろと考えさせられ、また、ハッとさせられました。

全体を通して「コトバはコトバの素の集まりである」ということが基本であり、大切なことであるということが繰り返し語られています。そのコトバの素とは何か、ということが重要なことだと思いますが、私は「コトバにならない思いや仕草、表情、色彩や温度など…そうなってくるともう、『感じる・存在する』すべてのもの」であるとこの本から読み取りました。間違っていたら、それはそれで勝手な自分の学びとして残しておきます。

いろんな気づきのきっかけをこの本からもらったのですが、印象に残った箇所をいくつか紹介したいと思います。

ですから環境が、なんというかな、コトバを生み出すわけで、あったほうが便利というところでどんどん生まれてる。そして、そのほとんどが、名前のついていない、まだコトバの素の集合として不安定に存在している。そんなコトバに満ちているんですね。そして、そういう、コトバの素の集まりをどれだけ丁寧にたくさん見つけられるかというのが、僕らのような、ま、口はばったいですけど、表現というようなものを職業としている人間のテーマなのではないか――なんて思うわけです。(P15)

コトバの素の集まりというのは、本当はコトバと呼ばれてないわけですけれども、僕はあえてこれをコトバと呼びたい。これもコトバなんだと考えてみますと、コトバというのはとてもたくさんある。辞書にあるコトバをどれだけ覚えても足りないです。辞書にあるコトバというのは、使い道だとか保存だとか、コトバの使われ方が完成されているものですから、あれを全部覚えても、人と人とのコミュニケーションはうまくいかない。黙っているけれども、人の仕草やなんかでそこにコトバの素を発見してそれを読み取る力があれば、どんなコトバを行ったり来たりさせるよりも、コトバがたくさん使われているということになるわけです。(P21)

「ダジャレとはコトバの素の集まりを、通常とは別のつなげ方をしてしまう方法である」(P31)

コトバが持ってるある要素を、他の要素とつなげてしまったり組み替えたりすることで変えてしまうことを、ナンセンスと言います。さきほどダジャレというのは、コトバの集まりを通常とは別のつなげ方をしてしまうものだと言いましたが、ナンセンスというのはこの「構造の組み替え」であるというふうに考えられるわけです。(P36-37)

補足)ex.「私はまだ生まれてない」「二億三千万階建のビル」

ものごとにはなんでもホンネとタテマエがある、なんて分けちゃうんですけれども、僕はその分け方は、逆にちょっと乱暴なんじゃないかと思う。ホンネと言われてるものがホンネであるという証拠はどこにもない。(中略)ホンネというコトバでまとめてしまう発想というのは非常に乱暴で、かえってコトバをつまらなく不自由にしてしまう。だからホンネとタテマエという、二つに分けるやり方というのを、僕はいままで取らないで来たわけです。(P46-47)

キモチとコトバが調和してるってことを「快」――快く感じるように人間はできてる。(中略)「そうなんだよな」と言いたい動物、コトバの使い手というのは、コトバと感情、コトバと事実がピタッときれいに対応することを快く感じる動物なんであるというふうに考えてください。(P50)

ちょっと学問的な部分ばかり取り出してしまったので、やや硬い印象になってしまったかもしれませんが、糸井さんがユーモアを交えながら「コトバ」について語っているこの本はとても面白く、参考になりました。

検索してみて分かったのですが、この本は現在入手しようと思うと容易ではないようです。(ネットオークションにはいくつか出品されていました。)今回は図書館でたまたま見つけて読むことが出来て、ラッキーでした。

追記1:2006年8月28日(月)

本書で糸井さんが少し触れられていた「本音と建前」について、18冊目で紹介した、『あたらしい教科書 3 ことば』にも興味深いことが書かれていたので、引用させていただきます。

文化論などでは、日本人は建前と本音を使い分けるということが昔からよく言われています。私も、日本では本音と建前というのが、他の世界の国々よりもずっと強化されているという考えを持っていますが、ここには社会学的な問題以上に、言語の問題があるだろうと考えています。

どういうことかというと、先ほど説明した二重構造の日本語の中では、漢語はできるだけフォーマリティーを装って、難しく難しくなろうとするんですね。たとえば私たちも、ちょっとかしこまった場所に出席して挨拶なんかすると、「本日は好天に恵まれ……」という言い方をします。ところが、いったん家に帰って誰かと挨拶するとなると「いや今日はいいお天気で」となる。あるいは、結婚式場では新郎新婦はいつでも才媛才子になって、硬い言葉で褒められるわけですが、家へ帰ったら「アイツらさぁ」なんて話をして、建前は漢語的で形式的に、本音は和語的で下卑てくる。こういう物言いが、日本人の中に多かれ少なかれ常にありますが、これも日本語の二重性から生じる問題です。これはまた、「言」と「文」とがかなり遊離しているために、「言」は日常的で瑣末なコミュニケーションに終始し、「文」はやたらと格式ばってはいるけれど、内容が空疎なスピーチのようになってしまうということにも関わるだろうと思われます。(P26-28:加賀野井秀一)

◎関連リンク◎

ほぼ日刊イトイ新聞

オトナ語の謎。(ほぼ日刊イトイ新聞)

言いまつがい(ほぼ日刊イトイ新聞)

声に出して読めない日本語。(ほぼ日刊イトイ新聞)

広告批評

『雨ニモマケズ』 宮澤賢治(自由文庫)

・『オトナ語の謎。』 糸井重里 ほぼ日刊イトイ新聞 2005.3 新潮社(新潮文庫)

・『言いまつがい』 糸井重里 ほぼ日刊イトイ新聞 2005.3 新潮社(新潮文庫)

・『センチメンタルな旅・冬の旅』 荒木経惟 1991.2 新潮社

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コメント

おわぁ。すごい…。。
めっちゃ、進化してる。
なんかすごく羨ましいなぁ。

もう、本を手にする時間がないから、
現実に挫折した感があるけど、
またいつか、自分のペースをとり戻すまで、
ここからエネルギーをもらいまする☆

しばらくは、読書に関してはニュートラルです(涙)

投稿: おうじ | 2006年5月20日 (土) 21:05

5月はほとんど本を読めなかったよ~
ピンポンパンも全然更新できずぅ…

忙しくても、他にせんとあかんことがあっても、
この時間は読書に当てるっていう時間をうまく見つけないと、
なかなか読めないね

自分が本を読む代わりに、
自分がいいなぁと思った書評系のサイトを、
たくさん見つけて右端にリンクしたので、
そちらもまた巡ってくださいな~

投稿: はっち | 2006年6月 1日 (木) 21:41

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