カテゴリー「ことば」の12件の記事

2009年10月 4日 (日)

78冊目 『うめ版』

辞書・辞典の世界では電子辞書の発展と普及が目覚ましいようですが、私はアナログで紙をペラペラと手繰るのが好きなので、紙の辞書はまだまだ手放せません。

教育現場、特に小学校においては辞書を引くことの効用に注目が集まっているとも聞きます。辞書と一口に言ってもその目的に応じて、出版社もカテゴリもたくさんの種類がありますが、この本は誰のための辞書として、どこに分類されるのでしょうか。今回私が手にしたのは、

『うめ版』 新明解国語辞典×梅佳代 2007.7 三省堂

うめ版』 新明解国語辞典×梅佳代 2007.7 三省堂

という本です。

新明解国語辞典といえば、辞書好きには有名な、国語辞典でも異彩を放つ個性の強い辞典。そして梅佳代さんといえば、『うめめ』や『男子』などの写真集が注目された、新進の若手写真家。この異彩の辞典と話題の写真家のコラボレーション作品が、『うめ版』です。

『うめ版』 新明解国語辞典×梅佳代

で、どのように構成されているかというと、見出しとなる「ことば」に対して、右のページに新明解の解説書きがあり、左のページにその「ことば」を想起させるような写真が載せられています。

シンプルに言うとそれだけなのですが、ページを捲っていくとこれがなかなか深いんです。新明解のことばの解説だけでも従来味があるものだったのですが、これまた味のある梅佳代さんの写真が添えられたことで、ぐっと迫ってくるものがあります。

やはりことばをことばで説明するということには限界があるのかもしれないということと、どんなに巧く工夫しても「ことばに出来ないものがある」ということ。それを梅佳代さんの写真が見事な表現として、ことば以上にそのことばを言い表しているというところでしょうか。

こうして見ていると、梅佳代さんの写真集『男子』こそ、まさに「男子」ということばを、ことばを用いることなく表現した、本書の先駆けともいえる存在であったんだなと感じました。

個人的には、「生一本」や「ライバル」、「分からず屋」といった項目が特に好きでした。梅佳代さんの作品には必ずといっていいほど、人物か動物が写っていて、いい顔だけでは表せない人間のいろいろな複雑な表情が見れて、本当に大好きです。

個性の強い新明解だからこそ、梅佳代さんの生命力の強い写真たちとがっぷり四つに組んで渡りあえている気がしました。この作品をヒントに、たくさんの人がその写真をある「ことば」に見立てる、名づけてみるのも面白いだろうなと思いました。

「わたし版」の作品が出来たら楽しいでしょうね。そんなことを感じたインパクトの強い、ことばの写真集でした。

◎関連リンク◎

うめ版 新明解国語辞典×梅佳代(三省堂)

『三省堂 新刊 NEWS』号外 うめ版 新明解国語辞典×梅佳代(三省堂)

新明解国語辞典第六版(三省堂辞書サイト)

うめかよ参上!(ほぼ日刊イトイ新聞)

・『うめめ』 梅佳代 2006.9 リトルモア

・『男子』 梅佳代 2007.7 リトルモア

・『じいちゃんさま』 梅佳代 2008.7 リトルモア

・『新明解国語辞典 第6版 並版』 2004.11 三省堂

・『新解さんの読み方』 夏石鈴子 2003.11 角川書店(角川文庫)

・『新解さんリターンズ』 夏石鈴子 2005.9 角川書店(角川文庫)

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76冊目 『エア新書』

10月に入り、衣替えの季節になりました。

会社でもいわゆるクールビズが終わり、ネクタイの着用が始まりましたが、首元を閉じただけで暑さが厳しいです。ワイシャツの中の空気の換気口が少なくなっただけで、こんなにも違うんですね。私も同僚も結局みんな腕を捲くって仕事しております。今年は暖冬の予想が出ているだけに、暑がり一族にはまだまだ辛い日々が続きそうです。

さて読書の秋に、ちょいとユーモアを取り入れようと今回私が手にしたのは、

『エア新書』 石黒謙吾 2009.1 学習研究社(学研新書)

エア新書』 石黒謙吾 2009.1 学習研究社(学研新書)

という本です。そういえば新書をここで取り上げるのはかなり久々な気がします。

数年続いた新書ブーム、新書の創設ラッシュも一段落した感がありますが、書店で新書のコーナーを覗いてみると、毎月膨大な数の新書が未だに出版され続けているのに驚きます。

正直、あまりの多さに何がどの出版社から出ているのか把握しきれないですね。自分の読書傾向が変わってきたこともありますが、新書を買う機会が減ってきた気がします。

で、今回紹介する新書なんですが、『エア新書』。ピンと来られる方も多いと思いますが、ちょっと前にネット上で話題になった「エア新書」というサイトがきっかけで、本物の編集者である著者が、「この人ならこんなイメージがあるな」と、100冊の架空の新書を考えてまとめた本です。

学研新書から発売されているのですが、中身をペラペラと捲ってみると、本書『エア新書』と同じような装丁で、ずらっと表紙ばかりのページが続きます。

メインタイトルとサブタイトル、そして帯コピー。この三位一体と著者名が組み合わさった瞬間、それは「笑い」と「感心」となって昇華します。

脳科学者の茂木さんは実際にたくさんの本を出版されていますが、こんな本は出ないと分かっているだけに、不思議な説得力がありますね。

Airshin

そしてこの本、ただのお笑い本ではありません。読んでみて、実際に自分で作ってみることで、間違いなく脳が活性化されます。発想の筋トレです。それも苦しくない、楽しい筋トレ。この本を参考にして、有名人でもいいですが、身の回りの人で想定してみることも強力にオススメ。(P2-3)

私も実際に1冊考えてみました。

もしも甲子園の魔物が本を書いたら…。一体どれだけの球児を泣かせ、どれだけの観衆に感動のドラマを見せてきたのか。その裏話を語ってほしいですね~。

エアギターやエア焼肉。人間の想像力の産物である「エア○○」は、今後も人類とともに進化していきそうですね。(本当ですか?)

◎関連リンク◎

エア新書(学研新書)

エア新書(BLUE ORANGE STADIUM)

石黒謙吾の『エア新書』立ち読みブログ

エア新書

POPit

POPPIN BOOKS

腰帯ドットコム

売れる!書籍名メーカー 魔法のホンデレラ

エア焼肉

今年の“エアブーム”は『エア新書』か?(デイリーポータルZ)

新書ズラリ(2006年12月1日)

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2007年1月 6日 (土)

27冊目 『小さい“つ”が消えた日』

やっぱり本屋さんはいいですね。普段はネット書店を利用することが多いのですが、正月休みに久々にゆっくりと本屋さんの中を見て回って、またいろいろな本との出合いがありました。ネットだと、どうしても自分の興味に偏った直接的な検索によってしか本に辿り着けないのが、本屋さんだとザ~ッと本を見渡せるので、「おっ!」という発見がたくさんあって楽しかったです。さて今日紹介するのは、私が今年最初に手に取った、

『小さい“つ”が消えた日』 ステファノ・フォン・ロー 2006.11 新風舎

小さい“つ”が消えた日』 ステファノ・フォン・ロー 2006.11 新風舎

という本です。「コトバ」に関心を寄せている私は、この本が以前から気になっていたのですが、本屋さんでじっくり本を見て回っているときに見つけて、今年はこの本からスタートしようと思いました。

「もし小さい“つ”に音がないのなら、なくてもいいんじゃないの?」(P12)

そう言った『私』に、

「そんなことはないんだよ。音がなくても小さい“つ”はとても大切なんだ。」(P12)

と、『おじいさん』は五十音村の住人たちの話をしてくれたのです。

目次を紹介すると、

小さいころの三つの思い出

五十音村の住人たち

ある夏の夜の出来事

小さい“つ”、家出をする

小さい“つ”の大冒険

思いがけない提案

小さい“つ”へのメセージ

小さい“つ”はどうやって見つかったのか

三つの習慣

となっています。

まず、文字たちに性格があるという発想が新鮮で面白かったです。どうして作者はこの文字にこんな性格を与えたのかなと考えたり、自分だったらどんな性格にするだろうと考えるのが楽しかったです。

作品中、財産を持っている「い」と「し」、お金のない「は」が登場するのですが、みなさんどうしてなのか分かりますか?私はなんでかなぁとちょっと考えたのですが、文字を呼び捨てにするのではなく、敬称(~さん)をつけてみると…、なるほど。作者のユーモアが垣間見れます。

この物語は日本語の五十音が主役になっているのですが、作者のステファノ・フォン・ローさんはなんとドイツ出身。五十音村の住人たちの人物描写の上手さとユーモアは絶妙だったので、驚きました。そうか、いつも私の胸にある『ユーモアとは、にもかかわらず笑うことである』はドイツのユーモアの定義だったことを思い出しました。まさにドイツ流のユーモアに触れることが出来たのだと思います。

この物語の主人公、小さい“つ”は、かわいい男の子です。彼は一言も話すことが出来ません。ある時、五十音村で誰が一番偉いかという話になって、その話はとうとう誰が一番偉くないかという方向に進んでしまい…。

小さい“つ”がいなくなってみんなが気づいた大切なこと、そして小さい“つ”への「メセージ」。P36の小さい“つ”への残酷な嘲笑は、P86の本当に君の存在が必要なんだという気持ちに変わっていました。小さい“つ”が抜けてしまって、伝えたいのに伝えきれないその「メセージ」に、ちょ×とグ×ときました。

「沈黙」は発音できないけれど、だから必要ないわけではない。むしろ「沈黙」がなくなってしまえば、この世界を表す他の言葉も成立しなくなってしまう。数字の“0”もそうかなぁと思いました。

物語は平易で読みやすかったですが、読み手に深い思索をもたらす素敵な本でした。そして独特の絵のタッチ、特に小さい“つ”の可愛らしいこと。本を捲っていくと小さい“つ”がページの端っこを引っぱってみたり、動き回っていたり、とても微笑ましかったです。

新風舎の特設サイトで、本では詳しく語られていない「五十音村の住人たち」のことや、住人たちへの質問とその応答などを見ることが出来るので、読んだ後も楽しみが多いです。

~~その後……

残念ながら新風舎の書籍は書店で見られなくなりましたが、現在三修社から出版されているので、是非手に取ってみてくださいね

『小さいつが消えた日』(三修社)

◎関連リンク◎

小さい“つ”が消えた日(新風舎)

第26回新風舎出版賞大賞受賞作 小さい“つ”が消えた日(新風舎)

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2006年10月 5日 (木)

20冊目 『さまぁ~ずの悲しいダジャレ』

過労と季節の変わり目というダブルパンチを受け、フ~ラフ~ラ、フラダンスが流行の兆しらしいですね。

…すいません、そんな私(どんな私?)に必要だったのが、そう、「笑いの力」。「笑い」が健康に及ぼす好影響が科学的に研究されている中、私が触れたのは「悲しい」笑いでした。今回私が紹介するのは、

『さまぁ~ずの悲しいダジャレ』 大竹一樹 三村マサカズ 2004.8 宝島社(宝島社文庫)

さまぁ~ずの悲しいダジャレ』 大竹一樹 三村マサカズ 2004.8 宝島社(宝島社文庫)

という本です。この本、単なるタレント本とナメてはいけません。全国1億2700万人のダジャレ界に革命を起こしたすごい内容が詰まった本なのです。(やや誇張。…やっぱり、だいぶ誇張)

さてさて、何がすごいかというと、ダジャレに本来なら蛇足とも言える付け足しの一文を添えることで、もうすっかり聞き慣れてしまった、あんなダジャレやこんなダジャレを新鮮なものに変えてしまい、さらにはそのダジャレが本来存在したであろう場面をありのままにさらけださせてしまうという、ダジャレの新たな可能性を開拓した…。

すいません、ちょっと真面目が過ぎました。とにかく革命なんです。

ダジャレを求めて○○年。学生のときは生徒手帳にダジャレをNo.1から200個以上書き付け、「調子」と書いた紙に乗ってみたり、手に「酢」と書いてみたり、ペンを「ペンペン」と叩いてみたりしてきた私でしたが、さまぁ~ずの才能を前にして、感動が胸に込み上げて…いやいや笑い転げました。

この笑いは、じわ~っときます。なにしろ「悲しい」ダジャレですから。決してあせってはいけません。あさってはあしたのあしたです。

今日はふざけが過ぎておりますが、どうかご勘弁を。

もう少し本の紹介をすると、メインの『悲しいダジャレ』にいく前の、『悲しいダジャレを読むにあたっての諸注意』がすでに面白いです。諸注意にある通り、ページは順に読むことをおすすめします。ネタが微妙にストーリーになっているので、一度ツボにはまってしまうと繰り返し笑いの波に襲われます。ページを開くと、右ページに大竹のダジャレが、左ページに三村のツッコミが載っています。『悲しいダジャレ』、『悲しいダジャレの続き』、『悲しいダジャレのもっと続き』がメインですが、他にも『悲しいダジャレクイズ』という超難問(そんな答え分かるかいな~)や、『悲しいあ・い・う・え・お』(か、悲しい~)など、好きな人にはたまらない一冊です。

ちなみに、『さまぁ~ずの悲しいダジャレ』(単行本)は、さまぁ~ずにとっては初めての本で、ここには厳選された87個の悲しいダジャレが収録されています。文庫本では、単行本にちょこっとプラスされ、ボツになった悲しいダジャレが追加されていますよ。

ここで内容を出してしまうと、ちょっと白けてしまいそうで怖いんですが、どんなんか~な~ということで試しに一つ。

「アメって あめぇなー 本物は」

「いままでなにをアメって思ってきたんだよ。ニセもののアメってなんだよ!溶けるの?飲みこめるの?ガラス?」

ほらっ、このとおり…。

最後にさまぁ~ず、お二人の思いを。

三村 「よく、「10分で読み終えた」なんて人がいるけど、そういう人はダジャレも悲しみも何ひとつ噛みしめてないからね」

大竹 「ちゃんと噛みしめて読んだら、10分じゃ終わらない。20分くらいかかるね。」

三村 「それでも、20分なんだ(笑)」

大竹 「ホントの話、時間かけて読んだ方が面白さは増すんだよ。」(P249)

笑いの名作か、はたまた迷作か?あなたの力量とセンスがこの本で試されるのか?(疑問符のまま本の紹介を終えるのか?…)

追記1:2006年10月12日(木)

『さまぁ~ずの悲しいダジャレ』は、とにかくどう考えてもスゴイので、他の人も薦めていないかな~と検索していたところ、やっぱり熱い人はいるもんですね~。「月の騎士の戯言」の、月の騎士さんの記事が非常に面白かったです。

悲しいダジャレを大きく5つに分類されているのですが、その中の、④理不尽で悲しい一言では、月の騎士さんの真面目さとダジャレに対するストイックさが非常に伝わってきて、個人的にはすごく共感を覚えました。

私も学生の頃、ダジャレがある程度たまってきたので、それを分類してみたことがあります。

初級は、短い単語を繰り返すもの。例えば、「ふとんがふっとんだ」「サルが去る」など。世間的に浸透・聞き慣れてしまっているため、もはや笑いには結びつきにくいですが、小学生のときは、これらを連発することでまだまだ笑いが起こる可能性は十分あります。「赤はあかん、白にしろ」「石はいいし、岩もいいわ」などのように、重ね技を使うと少しだけ難易度は増しますが、笑いも増すかは保障出来ません。

中級は、単語を単純に繰り返さずに、英語(和製英語)に変換したもの。例えば、「石が落ちた、ストーンッ」「あっあの人は、雷さんだ~」など。英語をしっかりと学習するようになる中学生になると、結構閃くようになりますが、成長の段階的に思春期と相まって、笑いにはなかなか結びつきません。あと、効果音になっているものも中級です。例えば、「ズボンが勢いよく脱げた。ズボンッ!」「パンが破裂した。パンッ!」など。これは効果音なので、繰り返し言うと面白いです。「ズボンッ!ズボンッ!ズボンッ!」「何人脱げてるんだよ、ってか、なんで勢いあるの!?」自分でツッコミも入れてみました。

上級は、やや長い単語を使って、その単語だけで文章になっているもの。例えば、「君、百円玉食べれる?ひゃ~、食えん!」「運動場で遊んでもいいですか?うん、どうじょう」など。これは、見つけると嬉しいダジャレですが、笑いに結びつくというより感心されてしまい困ります。あと、よく考えてみると、ダジャレの設定がおかしいです。

私は、感情ダジャレを得意としていました。感情ダジャレは私の勝手な造語ですが、言うなればダジャレに魂を込めて言う。ただそれだけです。例えば、「惑星で屁をこいた。わっ、くせ~!」なら、「わっ、くせ~」の部分をものすごく感情を込めて言う。…私も自分で書いていて悲しくなってきましたが、これは使い古されたダジャレでも新鮮な笑いを得ることができるのでオススメです。(…誰に?)

中学生のときに、ダジャレを言い合っていた友人が、「新幹線は、しん↑かん↓せん↓」(矢印は、イントネーションの上下)と言った衝撃を今でも覚えています。これは、私が好きなツッコミ「言い方だけやん」に対応するボケなのですが、当時の私にとっては非常にシュールで(すごく新鮮に感じられた)、まるで季語もなく、17音でもない俳句のような衝撃を受けたのでした。

つらつらと書いてきましたが、とにかく「悲しいダジャレ」がすごいのは、付け加える一文次第で、初級のダジャレさえも新たな可能性をもった「笑い」に変わるという革命を起こしたことです。しかも「笑い」と「悲しさ」という、相反する二つのものが重なったときに見えてくる『人生の機微・真髄』ともいえる何かが否応なしに浮かび上がってくるという、とんでもないおまけつきで。

よしっ、言い切った。満足しました(汗)

◎関連リンク◎

さまぁ~ずの悲しいダジャレ 文庫版(宝島社)

・『さまぁーずの悲しい俳句』 大竹一樹 三村マサカズ 2006.9 宝島社(宝島社文庫)

☆トラックバックさせて頂いた記事☆

悲しいダジャレ最終回 ~その全貌~(月の騎士の戯言)

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2006年8月27日 (日)

18冊目 『あたらしい教科書 3 ことば』

コトバは面白い、コトバは難しい、コトバは不思議だ。

こうして文章を綴りながら、私は思います。自分の思いや考えを整理しながら、コトバを選び、並べ、文章にし、誰かに伝えるということ。会ったことも話したこともない人と、さらにはすでに同じ時間を共有し得ない先人たちと、コトバを介して出会えるということ。「コトバ」とは一体何なのか。その問いを様々な角度から投げかけてくれる素晴らしい本と出会いました。それが今回紹介する、

『あたらしい教科書 3 ことば』 加賀野井秀一 酒井邦嘉 竹内敏晴 橋爪大三郎 2006.4 プチグラパブリッシング

あたらしい教科書 3 ことば』 加賀野井秀一 酒井邦嘉 竹内敏晴 橋爪大三郎 2006.4 プチグラパブリッシング

です。今年刊行されて注目されている『あたらしい教科書』シリーズですが、ついに「ことば」をテーマに掲げた本が出版され、大いに期待していました。読んでの感想を初めに言ってしまうと、個人的には大満足の一冊でした。内容はというと、「ことば」について、現代思想、脳科学、演劇、社会学という4つの異なる分野からアプローチがなされて、それぞれの分野での「ことば」との格闘の様子が紹介されています。目次を見てみると、

イントロダクション

第1章 言葉から何を学ぶか(加賀野井秀一)

コラム1 多言語の現在(編集部)

第2章 言語の謎に挑む脳科学(酒井邦嘉)

コラム2 ことばの仕事(一倉宏)

第3章 からだとしてのことば(竹内敏晴)

第4章 社会は「言語ゲーム」でできている(橋爪大三郎)

コラム3 声が響いているということ自体の不思議さ(多和田葉子)

第5章 ことばをさらに学ぶために

となっています。この『あたらしい教科書』シリーズは、本の構成が工夫されていて、大事な言葉やキーワードが上下に設けられた余白部分で丁寧に解説されています。また、堅苦しい「教科書」ではなく、たくさんのイラストが散りばめられていて、そのゆとりある空間と落ち着いた色使いが、非常に心地良く感じられました。

私は「コトバ」に興味があるものの、これまで専門的に言語学を学んだことはありません。そんな私にとって、「ソシュール」「チョムスキー」という言語学に大きな足跡を残した人物と本書で出会うことが出来たのは非常に幸せなことでした。

言語とは実体ではなく、差異の体系である。(P16)

当時、常識的な言語観であったのは、まずモノが名前に先んじて存在し、そこに一つひとつラベルを貼るように、名前としての言葉が後づけされるという「言語名称目録観」でした。それに対してソシュールは、モノは名前に先立たないと主張したのです。

ソシュールは、言語の価値はそれ自体としてあるわけではなく、言葉と言葉の差異によって決定される、という言い方で説明しました。つまり、言語というのは、実体よりも差異が先にあり、網の目のような差異の体系として出来上がっているのだ、と。(P14)

私たちが日常何気なく使っている日本語についても、より目を向けさせられることとなりました。

言語学には「デノテーション」と「コノテーション」という用語があります。デノテーションとは言葉本来の意味で、「今日は暑いね」と言えば、文字通り暑いということを表明していることになります。これに対し、コノテーションとは言葉の背後にある意味のことで、同じ「今日は暑いね」という言葉が「窓を開けて」を含意したり、「ノドがかわいた」が「飲み物を持ってきてほしい」という意味であったりするわけです。もともと日本語は、コノテーションに長けた言葉でした。(P32-33)

なぜ手話に共通言語がないのか。このことについての説明には正直驚きました。

手話を人工言語と誤解している人が多いようですが、手話もまた、自然言語です。手話と音声は見かけが違うので、同じものではないと考えられがちですが、それが間違いであることは科学的にもはっきりしています。実際に手話を使っている人たちは、夢も手話で見ますし、寝言を言う代わりに手を動かしているんですね。

かなり手話に詳しい人でも、「なぜ世界に共通の手話がないのですか」と言います。自分は手話を覚えたいと思っているけれども、日本の手話だったら日本でしか通用しない、世界共通の手話があったら覚えるのにと。それが理由で手話を勉強しないのは、残念なことです。手話は、人間の自然言語だからこそ、多様性が生まれる。全世界に通じるような「共通言語」が存在しないように、多様性があるというのは、まさに手話が自然言語である証拠なんです。(P55-56)

さて、私はとうとう、そのコトバ、人と出会うことが出来ました。どれだけこの時を待ったでしょうか。私がコトバについてこれまで自分なりに考えてきたことと、見事に共通する話題が述べられていたのが第3章、竹内敏晴さんの文章でした。

現代という時代を見渡すと、メルロ=ポンティが言うところの「まことのことば」、今生まれ出てくることばが切り捨てられてしまって、ことばが情報伝達でしかなくなってきているなと感じています。親や教師が子どもに言っていることばさえも、情報伝達でしかなくなってきている。お母さんが「危ない!そこをくぐってはダメ!」と言えばいいところを、「そういうことをしちゃいけないと前から言っているでしょ」と言う。子どもはそんなことでは動かないですよ。そういう意味で、ことばが生きていないというか、どんどん節約されているんですね。生きていることばは、公衆の場でどんどん排除されています。

情報伝達のためのことばは、使い古された、すでにあるものを組み合わせるだけですから、新しいことばは生まれないわけです。だから、人は何万語としゃべっていても、実は一定のある枠組みの中でやりとりしているだけで、同質のものが行ったり来たりしているということになります。極端に言うと、自分が自分に答えているだけで、本当の意味での他者がいない。情報伝達の相手は誰でもよく、取り替え可能なんですね。これでは、本当に働きかけようとする相手が存在していません。(P80)

自分のことばが本当に相手に届いて、からだに触れ、相手を動かしているかどうかがはっきりしなければ、意味がないんですよ。(P82)

今、ほとんどの人は、誰かがしゃべっていることばは文章として頭の中に入れればいい、知識の冷蔵庫に入れておけばいいと思うようになってきています。人間に「話しかけている」という、その人の身心働きかけ全体がことばなのだとは考えていません。でも本来、「からだ」と「ことば」というふうに分けられるものではない。「からだ」と言おうが「ことば」と言おうが、それは一人の生きた存在の、ある局面をどう呼ぶかという問題にすぎず、ことばが生きているときは、からだも生きているのです。(P82-83)

乱暴に言えば、ことばで何かを伝えるというのは、不自由なのが当たり前なんですね。スラスラとしゃべれるケースというのは、情報伝達のことばの組み合わせであって、知り抜いたことばを知り抜いたパターンで組み合わせる作業をいかに早くやるかというのは、現代の人たちならできないことではありません。しかし、自分の中で、今生きていることばにして、自分の表現にしようとすることは、気持ちが深ければ深いほど難しいんです。まずは、スラスラとしゃべらなければいけないという考え方自体をストップする必要があります。(P91-92)

考えながらしゃべっている人の話は、スラスラしゃべる人の話よりもよく聞いてしまったりするでしょう。それは、その人が自分の中で、今ことばを探っている状態に触れられるからです。「ことばを選んでいるんだ。どこから出てくるのかな?」という、出てきたことばそのものよりも、そのことばが生まれてくる土台みたいなところに触れることができる。ことばが生まれる過程を一緒に体験できるというわけです。(P94)

話すのがうまい人、苦手な人がいます。聞いた話がいつまでも心に残る人、すぐに忘れてしまう人がいます。私はこれまで、話すのが苦手な人の話は何故か心に残り、話すのがうまい人の話は、その時はずいぶん納得するわりに、後になって話の内容を思い出せないということを何度か経験してきました。それで私なりにそのことを考えてみて、話が苦手な人の話は、スムーズでない分、その人が何を伝えたいのかを汲み取ろうと、こちら側から近づき、参加しようと努力するために、結果として心に残るのではないかと思いました。話がスラスラと出来る人が話す場合、聞く側がずっと受け身の状態になりがちですもんね。

このことは、竹内さんが「ことばが生まれる過程を一緒に体験できる」と述べられた箇所と重なるのではないかと思ったのです。このことから私は、「ことばが生まれる過程を大切にしないといけない」、つまりは、ことばを急かさないこと、待つということを大切にすることが、結果として借り物ではない「まことのことば」が生みだされるということにつながるのではないかと考えました。

子どもの頃、特に学校での、作文を書く、発表をするという場面。上手に、早く、効率良くしないといけないと、子どもながらにプレッシャーを感じることが多かった気がします。難しいことだと思いますが、「まことのことば」で自分自身を表現していくには、竹内さんの、「ことばが生まれる過程を大切にしないといけない」とのことばの重みを真に受け止めていく必要があるのではないかと思いました。

第5章では、さらにことばを深く学びたい人のためのブックガイドがあり、紹介されている本はどれも興味深いものばかりです。一つひとつの書籍へのコメントはここでは書けませんが、紹介されている本は参考までにここで紹介したいと思います。

・『言語学が好きになる本』 町田健 1999.1 研究社出版

・『「ことば」の課外授業』 西江雅之 2003.4 洋泉社(新書y)

・『日本語は進化する』 加賀野井秀一 2002.5 日本放送出版協会

・『漢字と日本人』 高島俊男 2001.10 文藝春秋(文春新書)

・『ことばと文化』 鈴木孝夫 1973.1 岩波書店(岩波新書)

・『言語の脳科学』 酒井邦嘉 2002.7 中央公論新社(中公新書)

・『言語を生みだす本能(上)』 スティーブン・ピンカー 1995.6 日本放送出版協会

・『言語を生みだす本能(下)』 スティーブン・ピンカー 1995.7 日本放送出版協会

・『たったひとりのクレオール』 上農正剛 2003.10 ポット出版

・『「心」はあるのか』 橋爪大三郎 2003.3 筑摩書房(ちくま新書)

・『ことばと国家』 田中克彦 1981.11 岩波書店(岩波新書)

・『論理トレーニング』 野矢茂樹 1997.11 産業図書

・『「からだ」と「ことば」のレッスン』 竹内敏晴 1990.11 講談社(講談社新書)

・『言葉の力』 松永澄夫 2005.6 東信堂

・『レトリック感覚』 佐藤信夫 1992.6 講談社(講談社学術文庫)

・『寝ながら学べる構造主義』 内田樹 2002.6 文藝春秋(文春新書)

・『記号論への招待』 池上嘉彦 1984.1 岩波書店(岩波新書)

・『ことばの歴史』 スティーヴン・ロジャー・フィッシャー 2001.7 研究社

・『残像に口紅を』 筒井康隆 1995.4 中央公論社

・『困ったときのベタ辞典』 アコナイトレコード 2005.5 大和書房

・『ちょっとしたものの言い方』 パキラハウス 1993.9 講談社

・『世界言語文化図鑑』 バーナード・コムリー 2005.1 東洋書林

・『世界のことば小事典』 柴田武 1993.5 大修館書店

・『アレ何?大事典』 佐々木正孝 2005.4 小学館

この本を通じて竹内敏晴さんと出会えたのは、すごく幸せなことでした。次は竹内さんの書籍にも目を通したいと思います。ことばについて、洗練された「問いかけ」を投げかけられて、自分自身考えさせられ、多くの新たな知見を得ることが出来たと思います。

◎関連リンク◎

あたらしい教科書(Petit Grand Publishing)

加賀野井秀一(中央大学)

Sakai Lab(東京大学)

Body&Words からだ2006

橋爪大三郎 研究室(東京工業大学)

・『人生を3つの単語で表すとしたら』 一倉宏 2004.4 講談社

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2006年7月 1日 (土)

16冊目 『都道府県別気持ちが伝わる名方言141』

図書館へ行くと、ぐるぐると歩き回って、出来るだけいろいろなジャンルの本を借りるようにしているのですが、やっぱりコトバ系の本だけは最低一冊は選んでいます。先日図書館へ行ったとき、『おっ、面白そう』と、思わず手にとったのが今回紹介する、

『都道府県別気持ちが伝わる名方言141』 真田信治 2005.1 講談社(講談社+α新書)

都道府県別気持ちが伝わる名方言141』 真田信治 2005.1 講談社(講談社+α新書)

です。タイトルの「気持ちが伝わる」がグッときました。もし『都道府県別名方言141』だったら、なんだか味気なくて、手にとっていなかったかもしれません。本書は、

第一部 日本語のバリエーション

第二部 県別・方言の風景

の二部構成になっています。本書のメインである第二部では、各都道府県ごとに、それぞれの県の自然・生活・性向などを表現するキーワードが「名方言」として3つずつ掲げられていて、47都道府県×3で計141の「名方言」が紹介されています。

さて、私はこの本を読む前、きっと都道府県ごとに切り分けられて、コトバが羅列されているんじゃないかと思っていたのですが、読み進めていくと、その予想はいい意味で裏切られました。項目は各都道府県ごとに区切られているのですが、その県や県の方言にまつわる著者のエピソードが語られながら、都道府県を横断する記述がなされていたのです。ある方言や言葉の形式をピックアップしたときに、それをその県だけのものとして閉じ込めてしまうのではなく、他の都道府県の言葉と関連づけながら説明されていたので、非常に面白く感じました。ここではすべてを紹介することはできませんが、私の住む関西に関する記述を幾つか取り上げてみたいと思います。

近畿方言

範囲 京都府丹後地方と兵庫県但馬地方を除く近畿地方の大部分、および福井県若狭地方

特徴 この方言の代表は大阪府と京都府の方言であるが、両方言の間にはかなりの相違が見られる。たとえば、「来ない」に対応する方言は、ケーヘン(大阪的)、キーヒン(京都的)である。ただし、最近はいずれにおいてもコーヘンという形が一般的になりつつある。「行かない・行けない」に対応する方言は、イケヘン・イカレヘン(大阪的)、イカヘン・イケヘン(京都的)である。また、尊敬語の「行かれる・来られる」に対応する方言は、イキハル・キハル(大阪的)、イカハル・キヤハル(京都的)である。(P25)

京都府丹後地方と兵庫県但馬地方は、中国方言の範囲に入っているそうです。

和歌山県

1 アガ(自分) 「アガのこととも知らんと」(=自分のことだとも知らないで)

2 ~ラ(~よ) 「今度、つれもて行こラ」(=今度、一緒に行こうよ)

3 アル(いる) 「人がよーさんアルのし」(=人がたくさんいるねえ)

奈良県

1 ~ミー(~ね) 「ほんでミー、あのミー」(=それでね、あのね)

2 キサンジ(素直なさま) 「キサンジなお子たちですなー」(=素直なお子さんたちですねえ)

3 モムナイ(おいしくない、まずい) 「このなんきん、モムナイなー」(=このカボチャ、まずいね)

滋賀県

1 カナン(嫌だ、やりきれない) 「ほんな厄介な仕事カナンわ」(=そんな厄介な仕事は嫌だよ)

2 ~ケ(~かい) 「ほ~ケ、ほなしよケ」(=そうかい、それならしようかい)

3 ダシカイナ(いいじゃないか) 「ほな、帰るわ」(=じゃあ帰るよ)「まあダシカイナ」(=遠慮しなくてもいいじゃないか)

京都府

1 ハンナリ(明るくて上品なさま) 「ハンナリしたお着物着たはりますなあ」(=上品な着物を着ていらっしゃいますねえ)

2 ホッコリ(ほっとするさま) 「せわしない用事もすんだし、ホッコリしおすなあ」(=忙しない用事もすんだので、ほっと一息つきますねえ)

3 ナムナムスル(平凡に暮らす) 「おかげさんで、まあナムナムシいたしております」(=おかげさまで、まあ何とかやっております)

大阪府

1 ボチボチ(そろそろ) 「ほな、ボチボチ行きまひょか」(=それでは、そろそろ行きましょうか)

2 ~ネン(~のだ、~のよ) 「いつまで飲んでるネン」(=いつまで飲んでいるんだ)

3 ~ンチャウ(~じゃない) 「そういうこととちゃうンチャウ」(=そういうこととは違うんじゃない)

兵庫県

1 ~テヤ(~ていらっしゃる) 「どこぞ、いとっターったんけ」(=どこかに行っていらっしゃったんですか)

2 イヌ(帰る) 「ほな、もうインでくるわ」(=それじゃ、もう帰るよ)

3 ゴーガワク(腹が立つ) 「ほんま、ゴーガワイたで」(=本当に腹が立ったよ)

本書を通じて、ハワイの日本語の特徴は、ハワイへの移住民を一番多く出した広島県の方言を基調にしていることや、旧陸軍が長州閥によってつくられたことで、軍隊に「~デアリマス」調の山口弁が普及したことなど、ことばに関する様々なエピソードを知ることができました。

私は「おおきに」という言葉が好きで、日常生活でもよく使うのですが、「おおきに」についての記述がありました。

ちなみに、「おおきに」を「とても」の意味で使う用法は浮世草子などの古典や明治時代に出版された和英辞書『和英語林集成』などにも見られる、いわば共通語であった。現代の関西での「おおきに」は、かつて全国的に存在した「おおきにありがとう」が縮まった言い方なのである。(P165)

面白いというよりも、すごいと思ったエピソードが載っていました。

一九八四年度には、研究室のゼミでのフィールドワークに紀ノ川流域を対象に選んだ。徳川宗賢先生も参加してくださった。和歌山(城)を陣地として調査をスタートした徳川方と九度山(真田庵)を陣地としてスタートした真田方が紀ノ川中流域で合流したのも懐かしい思い出である。(P140)

大阪大学で徳川先生と真田先生が方言の研究をされていたなんて、出来すぎていますが、これも事実なんですね。

私が本書に非常に好感を持ったのは、著者である真田さんの研究者としての真摯な態度と、それぞれの土地で生きる人々への暖かい眼差しが、その文章からよく伝わってきたからだと思います。すっかり真田さんのファンになってしまったので、きっと他の著作もこれから読むことになるでしょう。最後になりますが、読者として私が受け取った、著者の言葉に対する思いを書き記して、本書の紹介を終えたいと思います。

日本でも昨今さまざまな言語が行き交うようになった。そのような中で、母語によって自らを表現する権利と、地域社会にアクセスする権利という両面から、異言語間の相互理解の問題も取り上げるべき時が来ている。基本的な言語権を考えるために、また、偏狭なナショナリズムや少数派の切り捨てに対峙するためにも。

ちなみに、言語権というのは、母語ないし母方言によって自らを表現する権利、また母語ないし母方言による教育を受ける権利のことである。もちろん、方言コンプレックスもいまだ完全に解消したとは言えない。言語権に関して言語の場合と方言の場合とは同等なのである。(P3-4)

さて、地域での生活ことばというものに対して、私たちはどのようなスタンスをとったらいいのであろうか。

私は、まず自分自身のことばを見つめる、ということから始めるべきであろうと考えている。大切なのは、ひとりひとりが自分の日々のことばづかいに感受性を持つことである。ことばに敏感であることはすなわち生きることに敏感であることだと言ったら大げさであろうか。その心持ちは自然に他の人に不快感を与えない気配りの表現という形で現れてくるはずである。そして、もし美しいことばというものがあるとすれば、それこそが美しいことばと言えるものなのではないだろうか。(P159)

◎関連リンク◎

都道府県別 気持ちが伝わる名方言141(講談社)

真田信治のページ(大阪大学)

共通語取り込む 「ネオ方言」(YOMIURI ONLINE)

若者の方言ブームを探る(FMK EVENING JOURNAL)

新書マップ 方言

登録番号69 真田伝説の里 和歌山県九度山町(asahi.com 勝手に関西世界遺産)

・『方言の日本地図』 真田信治 2002.12 講談社(講談社+α新書)

はっちの太鼓本 太鼓本だ~♪どどんがどんっ!

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2006年5月 7日 (日)

12冊目 『イトイ式コトバ論序説』

「MOTHER」のことで頭がいっぱいのまま図書館に行ったら、こんな本を見つけてしまいました。今回紹介するのは、

『イトイ式コトバ論序説』 糸井重里 1992.9 マドラ出版

イトイ式コトバ論序説』 糸井重里 1992.9 マドラ出版

という本です。この本は、「夜中の学校」シリーズ(全13巻)の1番目の本なのですが、さて、「夜中の学校」シリーズって一体何でしょう?そのことについて、巻末で天野祐吉さんが書かれていたので、以下引用します。

「夜中の学校」シリーズについて

スクール(学校)のはじまりはスコーレ(遊び)だというのに、いまのスクールにはスコーレがない。で、「学び」は「遊び」だと実感できるような学校がほしいネという雑談から「夜中の学校」が生まれた。

教室はブラウン管がいい。地代がこう高いと、学校を建てるのがタイヘンだということもあるが、それ以上に、テレビはじっくり「語る」のに最適のメディアである。ヘンな細工をほどこさずに、「語る人」をエンエン映し出せたら、とぼくらは思った。

先生は、表現や学問の分野で、ちゃんと遊んでいる人がいい。幸いにも「広告批評」はふだんからそんな人たちとおつきあいがあるので、これには困らなかった。こういう先生たちにこういう講義をしてもらったら、ぼくらも決して学校ぎらいにはならなかったろう、というような先生方である。

「夜中の学校」は1991年7月から1992年9月まで、テレビ東京で毎週金曜日の深夜に放送され、この「夜中の学校」シリーズは、その講義録として出版されたそうです。

糸井さんにも、「コトバ」にも関心が高かったので、喜び勇んで読み始めました。

目次を見ると、

第一講 コトバだらけの世界

第二講 ダジャレとナンセンス

第三講 コトバと人間

第四講 感動と共振

第五講 コトバじゃ言えないコトバがほしい

となっていて、テレビ放映された5回分の講義(1991年8月3日・10日・17日・24日・31日放映)が読めるのですが、テレビでの講義が収められているということで、文章は話し言葉で、とても読みやすかったです。

さすが「コトバの職人」である糸井さんの講義だけあって、読みやすいのに内容はとても深くて、いろいろと考えさせられ、また、ハッとさせられました。

全体を通して「コトバはコトバの素の集まりである」ということが基本であり、大切なことであるということが繰り返し語られています。そのコトバの素とは何か、ということが重要なことだと思いますが、私は「コトバにならない思いや仕草、表情、色彩や温度など…そうなってくるともう、『感じる・存在する』すべてのもの」であるとこの本から読み取りました。間違っていたら、それはそれで勝手な自分の学びとして残しておきます。

いろんな気づきのきっかけをこの本からもらったのですが、印象に残った箇所をいくつか紹介したいと思います。

ですから環境が、なんというかな、コトバを生み出すわけで、あったほうが便利というところでどんどん生まれてる。そして、そのほとんどが、名前のついていない、まだコトバの素の集合として不安定に存在している。そんなコトバに満ちているんですね。そして、そういう、コトバの素の集まりをどれだけ丁寧にたくさん見つけられるかというのが、僕らのような、ま、口はばったいですけど、表現というようなものを職業としている人間のテーマなのではないか――なんて思うわけです。(P15)

コトバの素の集まりというのは、本当はコトバと呼ばれてないわけですけれども、僕はあえてこれをコトバと呼びたい。これもコトバなんだと考えてみますと、コトバというのはとてもたくさんある。辞書にあるコトバをどれだけ覚えても足りないです。辞書にあるコトバというのは、使い道だとか保存だとか、コトバの使われ方が完成されているものですから、あれを全部覚えても、人と人とのコミュニケーションはうまくいかない。黙っているけれども、人の仕草やなんかでそこにコトバの素を発見してそれを読み取る力があれば、どんなコトバを行ったり来たりさせるよりも、コトバがたくさん使われているということになるわけです。(P21)

「ダジャレとはコトバの素の集まりを、通常とは別のつなげ方をしてしまう方法である」(P31)

コトバが持ってるある要素を、他の要素とつなげてしまったり組み替えたりすることで変えてしまうことを、ナンセンスと言います。さきほどダジャレというのは、コトバの集まりを通常とは別のつなげ方をしてしまうものだと言いましたが、ナンセンスというのはこの「構造の組み替え」であるというふうに考えられるわけです。(P36-37)

補足)ex.「私はまだ生まれてない」「二億三千万階建のビル」

ものごとにはなんでもホンネとタテマエがある、なんて分けちゃうんですけれども、僕はその分け方は、逆にちょっと乱暴なんじゃないかと思う。ホンネと言われてるものがホンネであるという証拠はどこにもない。(中略)ホンネというコトバでまとめてしまう発想というのは非常に乱暴で、かえってコトバをつまらなく不自由にしてしまう。だからホンネとタテマエという、二つに分けるやり方というのを、僕はいままで取らないで来たわけです。(P46-47)

キモチとコトバが調和してるってことを「快」――快く感じるように人間はできてる。(中略)「そうなんだよな」と言いたい動物、コトバの使い手というのは、コトバと感情、コトバと事実がピタッときれいに対応することを快く感じる動物なんであるというふうに考えてください。(P50)

ちょっと学問的な部分ばかり取り出してしまったので、やや硬い印象になってしまったかもしれませんが、糸井さんがユーモアを交えながら「コトバ」について語っているこの本はとても面白く、参考になりました。

検索してみて分かったのですが、この本は現在入手しようと思うと容易ではないようです。(ネットオークションにはいくつか出品されていました。)今回は図書館でたまたま見つけて読むことが出来て、ラッキーでした。

追記1:2006年8月28日(月)

本書で糸井さんが少し触れられていた「本音と建前」について、18冊目で紹介した、『あたらしい教科書 3 ことば』にも興味深いことが書かれていたので、引用させていただきます。

文化論などでは、日本人は建前と本音を使い分けるということが昔からよく言われています。私も、日本では本音と建前というのが、他の世界の国々よりもずっと強化されているという考えを持っていますが、ここには社会学的な問題以上に、言語の問題があるだろうと考えています。

どういうことかというと、先ほど説明した二重構造の日本語の中では、漢語はできるだけフォーマリティーを装って、難しく難しくなろうとするんですね。たとえば私たちも、ちょっとかしこまった場所に出席して挨拶なんかすると、「本日は好天に恵まれ……」という言い方をします。ところが、いったん家に帰って誰かと挨拶するとなると「いや今日はいいお天気で」となる。あるいは、結婚式場では新郎新婦はいつでも才媛才子になって、硬い言葉で褒められるわけですが、家へ帰ったら「アイツらさぁ」なんて話をして、建前は漢語的で形式的に、本音は和語的で下卑てくる。こういう物言いが、日本人の中に多かれ少なかれ常にありますが、これも日本語の二重性から生じる問題です。これはまた、「言」と「文」とがかなり遊離しているために、「言」は日常的で瑣末なコミュニケーションに終始し、「文」はやたらと格式ばってはいるけれど、内容が空疎なスピーチのようになってしまうということにも関わるだろうと思われます。(P26-28:加賀野井秀一)

◎関連リンク◎

ほぼ日刊イトイ新聞

オトナ語の謎。(ほぼ日刊イトイ新聞)

言いまつがい(ほぼ日刊イトイ新聞)

声に出して読めない日本語。(ほぼ日刊イトイ新聞)

広告批評

『雨ニモマケズ』 宮澤賢治(自由文庫)

・『オトナ語の謎。』 糸井重里 ほぼ日刊イトイ新聞 2005.3 新潮社(新潮文庫)

・『言いまつがい』 糸井重里 ほぼ日刊イトイ新聞 2005.3 新潮社(新潮文庫)

・『センチメンタルな旅・冬の旅』 荒木経惟 1991.2 新潮社

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2006年3月 6日 (月)

6冊目 『全国アホ・バカ分布考』

「この世のあらゆる謎や疑問を徹底的に究明する」ことをモットーとし、この3月で放送19年目に突入した関西が誇る名物番組。あまりにもアホらしい依頼から、作り物のドラマ顔負けの、気づけば心の琴線に触れまくりの感動巨編まで、「喜怒哀楽=生きること」を丸ごと包み込んだ、視聴者参加型の娯楽番組、それが「探偵!ナイトスクープ」ではないかと私は思っています。

その「探偵!ナイトスクープ」が「全国アホ・バカ分布図の完成」編を放送したのは1991年5月のことでした。当時私は小学生で、不覚にも「ナイトスクープ」の存在を知りませんでした。(たぶん放送時間には寝てましたね…。)ただ、「アホ・バカ分布図」というキーワードをどこかで得て、これまでずっと気にはなっていたのですが、実際どんな内容だったのかを知るまでには至りませんでした。そんな私が手に取った本、それが今回紹介する、

『全国アホ・バカ分布考』 松本修 1996.12 新潮社(新潮文庫)

全国アホ・バカ分布考』 松本修 1996.12 新潮社(新潮文庫)

です。内容はというと、まさに「全国アホ・バカ分布図の完成」編の放送に至るまで、番組制作の中心人物であった著者が、その発端から経過、さらに放送後の驚くべき展開、そしてついに辿り着いた『アホ・バカとは何か』の結論まで、当時の現場の熱気や息遣いをリアルに感じさせる見事な筆致を持って、鮮やかに書き出したものとなっています。

新婚サラリーマンからの依頼の葉書が、前代未聞の調査の発端でした。

「私は大阪生まれ、妻は東京出身です。二人で言い争うとき、私は『アホ』といい、妻は『バカ』と言います。耳慣れない言葉で、お互い大変に傷つきます。ふと東京と大阪の間に、『アホ』と『バカ』の境界線があるのではないか?と気づきました。地味な調査で申しわけありませんが、東京からどこまでが『バカ』で、どこからが『アホ』なのか、調べてください」

この依頼を受けて調査は始まります。しかし、そこには思わぬ事実が待ち受けていました。東京から大阪に向けて出発した『アホ・バカ』調査の旅で、突然、名古屋の『タワケ』が現れたのです。それは、なんとなく「東は『バカ』、西は『アホ』」だと考えていた概念を打ち砕く、衝撃の事実でした。さらに九州出身の岡部秘書が、「九州ではどう言うんですか?」との問いに、「『バカ』、って言う気がしますね」との、またしても衝撃的な発言。それは、近畿の『アホ』が、東西の『バカ』にはさまれているという、驚くべき事実が顔を出した瞬間でした。投稿者の何気ない依頼を発端として、このような衝撃的な経過を辿りながら、この『アホ・バカ』調査は、以後すさまじい展開をみせることになります。

当初、『アホ』と『バカ』の境界線を見つけるはずだったこの調査は、放送をきっかけに全国各地に息づいていた、それぞれの『アホ』や『バカ』を発掘する結果になりました。

『タワケ』『ゴジャ』『デレ』『ダラ』『ホウケ』『タクラダ』『ホンジナシ』『ハンカクサイ』…。全国各地には、その土地以外の人は聞いたことがなかった、これらの言葉が生きていたのです。では、それらの言葉は一体何なのか。その新たな謎に、著者と番組スタッフは向きあうことになります。

読んでみると分かりますが、著者は読み手が唸るほど、すさまじい量の資料に目を通し、そしてそれらの謎を一つひとつ読み解いていきます。そしてもはや娯楽番組の一企画という殻を破り、まさに知で知を磨く積み重ねの中から、これまでこれほど身近でありながら、誰もちゃんと研究してこなかった『アホ・バカ』というものの姿を、初めて浮かび上がらせていくのです。それはいつしか「言語地理学」における、立派な研究となっていきました。

著者は、最後に『アホ』と『バカ』はそもそも何だったのかについて、自らの説を打ち立てます。それは『アホ・バカ』調査のクライマックスであり、かつ核心となるものでしたが、私はこのクライマックスにかけての文章を追いながら、あまりの衝撃感動で、ほんまに胸が震えてきました。どこまでも真実に迫ろうとする人間の情熱と真剣さが、怖くなるくらいの発想と想像力をもって、その結論を導き出したのでした。著者は最後にその結論を、調査仲間に発表するのですが、その時の仲間とのやりとりは正直、鬼!です。私の表現力を持ってしては、「鬼」としか表現できません。その含意は、知を知で磨く調査の中心にいたのは、紛れもなく確かな実力と発想を持った、人間味溢れる猛者たちで、一体どこまで高みに行ってしまうんやという、読み手が恐ろしさを覚えるほどの爽快な見晴らしを見せてくれたというところでしょうか。

個人的に最も印象に残っているのは、沖縄で使われている『フリムン』の解読に際しての場面で、琉球の人々が先祖から受け継いできた大切な言葉であることをどこまでも信じたからこそ、その真実に迫ることが出来た、著者の熱意と魂に、自然と涙が出てきました。

みなさん、まだお読みになっていなければ、是非この『アホ・バカ』を辿る、どこまでもあほらしくて、どこまでも真剣な知の旅に出かけられることをお勧めします。

そうそう、肝心の『アホ・バカ』についてですが、一つだけ。実は『バカ』よりも『アホ』の方が、新しい言葉だったのです。そして『アホ』の本拠地、近畿も昔は『バカ』の本拠地だった!?現在、近畿の『アホ』が東西の『バカ』にはさまれているという事実は、「方言周圏論」に照らしてみれば…。おっと、あとは読んでからのお楽しみです。

ここに本当の「学び」の豊かさと楽しさを見つけることが出来ました。どこまでも恐ろしい奇跡の調査、その軌跡が詰まった本書は、文句なしに一読以上の価値ありです。

追記1:2006年3月22日(水)

先日、「さんまのスーパーからくりTV」の生徒だけの学級会という人気コーナーをたまたま見ていたところ、ある先生が「たわけ」という言葉を使われました。もしかしてと思って注意してみていると、やはり岐阜県高山市の高校の先生でした。ここはまさに「たわけ文化圏」なんですね。

個人的には「たわけ」と聞くと、NHK大河ドラマ「葵 徳川三代」で徳川家康を演じた、津川雅彦さんの顔が浮かんできます。江戸幕府をひらいた徳川家康は三河の出身。当然家臣も三河から江戸へと行ったわけで、そのために「たわけ」は江戸の武士の言葉として広がり、そのことから今も時代劇などで「たわけ」が使われているようです。

もう一つ、九州でも「バカ」が使われているということに関連して、WBC(ワールドベースボールクラシック)で世界一になった王JAPANの一員で、九州のイチローと呼ばれているという川崎宗則選手のご両親が、決勝戦をテレビ観戦されている場面が先日放送されていました。

川崎選手は鹿児島県出身で、ご両親もおそらく九州の方だと思うのですが、お父さんが観戦中に思わず熱が入り、「バカ」と言っていました。あぁやっぱり「バカ」を使ってるんやと頷きながら、標準語とは少し違う、なまりの入った「バカ」からは何とも言えない温かみが感じられました。そういえば、博多出身の武田鉄也さんも「ばかちん」って言ってましたね。やはり九州では「バカ」が勢力を広げているようですね。

◎関連リンク◎

全国アホ・バカ分布考(新潮社)

探偵!ナイトスクープ(朝日放送)

探偵!ナイトスクープ 情報放送局

馬鹿(Wikipedia)

全国方言談話データベース「日本のふるさとことば集成」(国立国語研究所)

全国方言WEB ほべりぐ

『全国アホバカ分布考』松本修(松岡正剛の千夜千冊)

登録番号61 アホ(asahi.com 勝手に関西世界遺産)

・『探偵!ナイトスクープ アホの遺伝子』 松本修 2005.4 ポプラ社

・『日本の方言地図』 徳川宗賢 1979.1 中央公論新社(中公新書)

はっちの太鼓本 乱打太鼓本だ~♪どどんがどんっ!

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2006年2月 1日 (水)

5冊目 『「桜と日本人」ノート カラー版』

桜、さくら。

その言葉を聞くだけで、の麗らかな美しい光景が目の前に広がり、旅立ちの記憶がよみがえってくる、特別な名を持つ花です。毎年のように新たな「さくら」が歌われ、新生児の名前ランキングでは「さくら」が常に上位にランクインしています。日本人にとって「桜」とは、単なる花ではなく、そこに歴史や民俗、文化や芸術、様々な思いを重ね続けてきた、日本というものを考えるうえで、欠かすことの出来ない重要なものの一つなのではないでしょうか。今回紹介するのは、

『「桜と日本人」ノート カラー版』 安藤潔 2004.3 文芸社

「桜と日本人」ノート カラー版』 安藤潔 2004.3 文芸社

という、まさしく「桜と日本人」の深いつながりを、様々な視点・角度から考察した本です。何と言っても、カラー版なので、その装丁が非常に美しく、たくさん収められている桜の写真も色鮮やかに映え、眺めていると心が弾んできます。目次を紹介すると、

第一章 「サクラ」とは何か

第二章 古代の「桜」

第三章 「桜」に魅せられて

第四章 「桜」の民俗

第五章 お江戸の「桜」

第六章 「さくら」とことば

第七章 「桜」を象る

第八章 「サクラ」の名を借りて

第九章 暮らしの中の「さくら」

となっていて、九つの章と約五十の項目で構成されています。

作者はまえがきにおいて、

「さ・く・ら」ということばが耳に聞こえてきた時、その音感も含めて、人にはそれぞれどんなイメージやどんな心の動きが生まれるものなのでしょうか。そういうことを一つ一つ取り上げて、私はいつか、桜と日本人との関わりの全てを手操ってみたいと思うようになりました。

と記しており、「桜」に対する情熱が伝わってきます。

実際、この本を読み進めてみると、桜の歴史的な文脈を追うだけでなく、「桜」の切手や、その名を持つ日本酒を紹介したり、「桜」のつく地名を探ったり、「花咲爺」や「遠山の金さん」を取り上げたりと、まさしく「桜と日本人」の関わりを探るために、幅広い探求がなされていて、読者を飽きさせません。

ただ、その幅を広げているために、まだ解明されていない項目も扱うことになり、その点は解明が待たれるところですが、それらを含めても非常に面白く、興味の尽きない取り組みであると思います。日本古謡「さくら」(♪さくら さくら 弥生の空は)に関する疑問として、元となった古謡とは何か、なぜこれほど日本人に親しまれるに至ったのか、などが挙げられており、解明への取り組みは今後も続きそうですが、今から非常に楽しみです。

「サクラ」の語源としてはいくつか説があるようですが、作者曰く、

「農作業(稲作)を始める時期に咲き、その年の収穫の吉凶を占うべき、最も神聖かつ美しく大切な花」

との心情が込められた言葉だそうです。

私が「桜」を想像するとき、それはおそらく「ソメイヨシノ」なのですが、作者によれば、執筆段階で367種の桜が確認出来ており、今後も新種や未発見のものが見つかっていくのは確実なようです。一口に「桜」といっても、日本全国を見渡せば、それは千差万別であり、各地に伝説の桜や、天然記念物に指定された桜など、様々な桜が存在していることを知りました。やはり「桜」は、私たちにとって、身近にして相当奥の深いもののようです。

最後になりますが、この桜を扱った美しい装丁の本は、本棚にも花を咲かせてくれることでしょう。

追記1:2006年4月14日(金)

そういえば、平成の大合併で「さくら」という名前のついた自治体が誕生していたような気が。早速調べてみると、2005年3月28日に栃木県でさくら市が誕生していました。ちょうど桜の開花の時節に自治体も出発したんですね。

これまでは「さくら」という名の自治体といえば千葉県佐倉市が思い浮かびましたが、栃木県さくら市は本当に「桜」の「さくら」だけに、記憶に残りますね。ただ、地名として名乗るのは、なんとなく微妙な感じもします。「さくら」と聞いて、日本のこの場所だ!という、人々の共通認識はあまりないのではないでしょうか。

ともあれ、もしもさくら市の方と知り合いになれたら、ぜひ手紙を書きたいです。住所を書くのがちょっと嬉しいかも。もちろん、さくら市から届く郵便はさらに嬉しいでしょうね。ちなみに、さくら市の人口は約4万人だそうです。今後、出会いがあるのかなぁ。

栃木県さくら市

さくら市の「桜」開花情報

追記2:2006年4月14日(金)

京都・伏見の醍醐寺といえば、豊臣秀吉が催した「醍醐の花見」の舞台として有名ですが、その醍醐寺で話題になっているのが、しだれ桜「土牛(とぎゅう)の桜」のクローン桜です。

醍醐寺・しだれ桜「土牛の桜」

「土牛の桜」は推定樹齢が150歳に達していて衰えが見られることから、クローン技術で「土牛の桜」を増殖させ、そのクローン桜は昨春初めて、わずかながら花を咲かせたそうです。そして今年、クローン桜は昨春に比べてたくさんの花を咲かせたそうで、先日ニュース番組でたまたま目にしたのですが、その姿は若木ながら確かに血筋を感じさせる(というかクローンなんですね)美しく立派なものでした。今から100年後、このクローン桜は人々の目を楽しませているのでしょうか。クローン技術は、このような場面にも用いられているんですね。

話の筋から逸れますが、昨年大きな話題となった「ど根性大根の大ちゃん」、その強靭な生命力で、もし子孫が無事成長していけば、いつの日かブランドになるかもしれないですね。

バイオ技術で増殖した『土牛の桜』のクローン桜(住友林業)

・『がんばれ大ちゃん』 みやざきあゆみ 2006.3 恒星出版

追記3:2006年4月14日(金)

「桜の開花をあらわすのに『○分咲き』という表現があるが、『○割』と言うのが適切ではないか」

との問い合わせがNHK放送文化研究所にあったそうです。そう言われると、確かに当たり前のように使っている『○分咲き』という表現は、なぜ『○割咲き』ではないのかという疑問が湧いてきました。詳しくは下の記事を参照ください。

○割○分○厘と聞くと、頭の中にはプロ野球のことが浮かんできますが、それはさておき『○分咲き』という表現だけでなく、咲き始めの頃に、『一厘咲き』という表現を耳にしたことがありませんか?うんと思ったあなたは、私のお仲間です。これって『一厘』じゃなくて、『一輪』なんですね。えっ?そんな間違いしないって?すいませんでした(汗)

サクラサク - ことばウラ・オモテ(NHK放送文化研究所)

◎関連リンク◎

カラー版 「桜と日本人」ノート(文芸社)

ニッポンの桜だより(今日のニッポン)

北海道松前郡松前町

「さくら」を冠する歌(Yahoo!ミュージック)

『心に残る桜ソングNO.1は!?』(ORICON STYLE)

名前ランキング2005(明治安田生命)

新書マップ 桜と花見

・『百分の一科事典・サクラ』 スタジオ・ニッポニカ 1998.4 小学館(小学館文庫)

・『桜が創った「日本」』 佐藤俊樹 2005.2 岩波書店(岩波新書)

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2006年1月24日 (火)

3冊目 『雨の名前』

2冊目に紹介した『風の名前』とセットで置かれていたのが、今回紹介する本です。

『雨の名前』 高橋順子 2001.6 小学館

雨の名前』 高橋順子 2001.6 小学館

こちらの方が先に出版されていたようですが、個人的には「風」の方に先に興味が湧き、う~ん、しかし「雨」も魅力的ではあるなぁと結局2冊とも借りてきました。

昨年は空梅雨、一昨年は集中豪雨と、自然の力は時として人間の脅威とも、また大きな恵みともなりますが、雨や風への名付けをこうして眺めていると、古来、日本人は、その地理的要因に支えられた風土の中で、時に自然を敬い、畏れ、愛で、四季折々の変化に驚くほど繊細に応じてきたのだなぁと改めて思いました。

・「草の雨:くさのあめ」(春の雨) 山野に萌える草たちに烟るように降りそそぐ春の雨。このころの心躍る野歩きを「踏青(とうせい)」という。文字どおり青草を踏む。

・「万物生:ばんぶつしょう」(春の雨) 春の雨をいう。生きとし生けるものに新たな生命力を与えるということだろう。

・「青時雨:あおしぐれ」(夏の雨) 冬の季語である「時雨」に、青葉の「青」を付して、初夏の表情をだした言葉。青葉、若葉が目にしみるこの季節、その瑞々しい葉っぱからしたたり落ちるしずくを、時雨に見立てた風情のある言葉。

・「銀箭:ぎんせん」(夏の雨) 「箭」は矢のこと。夕立の雨脚を光る銀の矢に見立てたのである。

・「瞋怒雨:しんどう」(夏の雨) 「瞋怒」は目をむいて怒ることで、烈しい雷鳴を轟かせながら降る豪雨のこと。中国の言葉。

・「秋黴雨:あきついり」(秋の雨) 秋の長雨。(「黴」はカビ)

・「肘笠雨:ひじがさあめ」(季知らずの雨) にわか雨。急に降りだしてしまい、笠の用意もなく、あるいは笠をかぶるひまもなく、肘を頭上にあげて、袖を笠の代わりにすることから名付けられた風流な名。「ひじあめ」ともいう。

特定の「時」に限定された、雨の名付けもあります。

・「洒涙雨:さいるいう」(夏の雨) 陰暦七月七日の七夕の日に降る雨のこと。牽牛と織姫が逢瀬の後に流す惜別の涙とも、あるいは逢瀬がかなわなかった哀しみの雨ともいう。

・「鬼洗い:おにあらい」(冬の雨) 大晦日に降る雨のことで、「鬼やらい=追儺(ついな)」にあやかってのものか。

・「御降り:おさがり」(冬の雨) 元日、または三が日の間に降る雨や雪のこと。新年早々に降るこの雨は、農家にとってはその年の豊穣につながり、ありがたいものであった。「富正月」ともいう。

・「騎月雨:きげつう」(季知らずの雨) 「騎月」は月越しの意。月をまたぐ雨。

さて、最後にもう一つ。

・「じぼたら雨」(季知らずの雨) 和歌山市で、じめじめと降り止まない雨。

和歌山市で3年半暮らしましたが、初耳です。ちょっと嬉しくなりました。

『風の名前』も良かったですが、この『雨の名前』も負けず劣らず、その素敵なエッセーと雨の風景写真が、「雨」の世界を豊かに彩っていました。雨の匂いが美しく香る、そんな本です。

◎関連リンク◎

雨の名前(小学館)

高橋順子 四季の雨暦(コスモ石油)

・『花の名前』 高橋順子 2005.4 小学館

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